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NSRビジネス - コンテンツ 私の履歴書

1957年、和歌山県生まれ。典型的なO型人間。山羊座。

1969年、中学2年の時に若年性関節リウマチ(小児リウマチ)により半年間入院する。病状は回復するものの内向的な性格と心配性が災いし退院寸前で何故か悪化。そんな回復と悪化を3回も繰り返し、最後は、呆れ果てた主治医から退院を告げられぬまま一時帰宅と偽られて、家に送り帰され、わけのわからぬままに退院する。

田舎の中学校だったためだろう、おおよそ年間での授業日数が少ないにもかかわらず、親が頼み込んだこともあってか、めでたく?中学3年生に進級する。学力は、当然に空白期間が長かったため、成績は見事に低空飛行の日々が続く。

この頃、退院にまつわる苦い体験に懲りて自ら、内向的な性格をなおすための自己改革に取り組むことを決意する。そのため、いきなり、何故だか、突然に『落語』をはじめる。暗い性格を明るくするために・・・と思ったのだろうか?
自分でも、あまりその時のこと・・・ 動機について・・・ 記憶していない。

当時は、ラジオ深夜放送の全盛期であった。
吉本興業の落語家であった笑福亭仁鶴が全国区の人気タレントとなったのもこの頃。私は、その仁鶴をはじめ故桂枝雀(当時は桂小米)を真似て、日夜、落語ネタの練習に励んだ。

内向的な性格も、いつの間にか微塵もなくなり、すっかり調子に乗った田舎者の私は、ラジオやテレビの素人番組に出演するまでに積極的な性格に変身する。
人間とは、恐ろしいものである。自己改革は大成功となり、自分に大いに自信を持つ。

中学3年からはじめた落語は、その後高校から大学と、社会人になるまでの8年間続く。自己改革には成功したものの、弊害も・・・
人前で演じる快感に浸り過ぎ、自信過剰が目に余ることもしばしばとなる。

そして1979年、大学を卒業し広告代理店に入社。

広告制作の現場に憧れてはいたのだが配属されたのは企画調査部という地味な部署。ここは市場調査など、いわゆるマーケティングを主たる業務としていた。

その後企画志望をアピールし、プランニング、プロモーションと企画制作の部門へと異動。クライアント企業は、食品メーカー、運送会社、飲料会社、清酒メーカー、学習塾、情報サービス、ホテル、駅ビル地下街、郊外型SC、農産物、英会話学校、ゴルフ場、大規模リゾート施設、旅行会社、医薬品メーカー、宅配業、ボウリング場、日本旅館、電話会社 等何の脈略もなく、特化することもなく、ホント、自分でも呆れるくらいにさまざまで、おおよそ経験していない業界はない(ちょっと大げさ)とっていいほど担当した。

学生時代に培った『話術』で、競合プレゼンには自信はあったが、最後はクライアント企業への提案内容がモノいう世界。勝ったり、負けたりの日々が続く。

会社にはユニオンショップ協定を結ぶ労働組合(当時の組合員約180名)があり、30代の半ば頃になって職場委員に選出される。

そのうち経営側との団体交渉に関心をもちはじめ、結局その後、あれよあれよと、執行役員、書記長、委員長を順に務めることになる。

労組役員時代は、ちょうどバブル崩壊後の時期。労使交渉は売上低迷のもとに大幅な譲歩を余儀なくされる情勢が続く。
結局、労働組合って何やねん、とボヤキつつも、組合専従の役員をおくような大企業でもなく、競合プレゼンや広告制作、イベントのディレクションなどの業務と労組役員の任務を綱渡り的にこなす日々を過ごす。

忙しい忙しいと言いながらも、その一方で労組役員としての理論武装のため、忘れかけていた大学時代の労務管理ゼミを思い出しながら、自己啓発的に労働法について、再度勉強しはじめる。

勉強しはじめてから数週間後、何か、ゴールが欲しいと思うようになり、“どうせやるなら”と労務分野の国家資格試験に挑戦することを決める。お陰で、仕事、組合、勉強とさらに忙しい日々を過ごすこととなる。

組合役員も終わりの頃から、労働側の立場を越えて労使双方の視点から強い組織・会社づくりをしたいと思うようになり、2003年の秋、20数年にわたり勤めた広告代理店を退職。人事労務コンサルタントとして独立、現在に至る。

好きな言葉は 『クルマのバックミラー以外、後ろを見ない』

▼そして、私は、いまも 『変わり続けて』 います。

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